SMERSH/スメルシュ

はじめに
悪の帝国とまで呼ばれたソヴィエト連邦。この国は諜報機関による徹底した情報管理の恐怖政治によって存続しつづけたともいえます。だから組織が弱体したとたん、ソ連はあっというまに崩壊してしまいました。冷戦時代の共産圏諸国への武器・人材の派遣、中東アジア等のテロ・キャンプへの援助。かつて悪名を馳せた工作員たちは、国家が崩壊した今、一斉に野に放たれたという感じです。引く手あまたの、テロ組織には一人でもほしい人材流失。彼らを取りまとめて人材派遣会社を作った者が、ポスト・スペクターになるでしょうね(笑)

組織概要
ボンド曰く素晴らしき復讐機関。「スメイエルト・シュピオナム」というロシア語をつづけたもので、意味は「スパイ殺し」。もともとは国家保安省(MGB)の内部機関だったが、べりアの直接指揮下になり、独立。戦後五つの課による組織に編成された。その後も組織は幾度と無く解体、再編されたが、暗殺・破壊活動を遂行するスメルシュは、KGBの中核組織として生き残っていく。
第1局十三課、V(ヴィクトル)課、S局8課、スペツナズ・・・と名称は変れど、スメルシュがスメルシュであることには変わりない。旧スメルシュ時代の本部はレイニングラード。べリル失脚後はモスクワのスレテンカ通り13番地にある。1955年当時は男女合わせて40000人を抱えていた。国家保安委員会(KGB)発足後も本部の位置は変わっていない。作戦指揮は三階。会議室には要人の肖像がかかっており、時代によって変化がある。
1954年次・・・・レーニン、スターリン、ブルガーニン、べりア。
1955年より・・・べりアが外されシーロフ(国防会議議長)に
1977年・・・・・・スターリンが外されブレジネフに

その変遷
スメルシュの変遷はソ連の権力闘争と密接に関係がある。
スターリンの懐刀であるべリアが自らの権力を確立させるために、MGBからスメルシュを独立させた。対象は国外だけでなく国内にもおよび巨大な力を誇った。
ソ連の最高首脳部は11人の政治局員によって運営されている。その11人のパワーパランスによって政局が決まる。
スターリン亡き後、書記長の座をベリアとフルシチョフが争った。フルシチョフが先手を打ってベリアを葬ったことによって終結したがこのときフルシチョフに力を貸したのが、政治から距離を置いていても影響力のある古強者のイワン・シーロフ国防会議議長陸軍大将だった。フルシチョフは直ちにMGBを解体、KGBを創設した。そしてベリアの遺産であるスメルシュも消滅させたが、その必要性にはあがらえず、スメルシュはKGB第十三課の名称で復活する。ただし活動は党政治局の同意を必要とし独走を抑えた。
しかしフルシチョフもまたその力に衰えをみせはじめ、反フルシチョフ派のブレジネフの台頭により政治局のパワーバランスはブレジネフに傾いていった。フルシチョフにとって共存平和政策の要であるケネディ米国大統領が暗殺されたからだ。
フルシチョフは最後の賭けである西ドイツとの友好条約締結に走るが、ブレジネフ派のKGBの妨害に失敗、1964年、失脚する。
ブレジネフが書記長就任と共に、対西側の強攻策が展開され、スメルシュも1969年にKGBのX(ヴィクトル)課として再編がなされ、元KGB長官であるユーリー・アンドロポフが書記長の地位に登りつめたとき、図らずもリアリン亡命によって、V課は粛清の対称になり組織の活動が停止する。このリアリンだか、ジョンガードナーの物語の中では、情報部から潜入したスパイだと言及している。粛清後、かつての権限を剥奪された上で再編成されたのがS局8課である。
S局8課は、テロ国家やテロネットワークの台頭によって、第三国のテロリズムのインストラクターとして息を吹き返すことになる。

しかし、ゴルバチョフ書記長就任と政策として展開された、情報公開制度の必要上、刃がバネで飛び出すスペツナズ・ナイフで有名な、ソ連陸軍特殊部隊スペツナズの中にメンバーを所属させる方法を取るようになる。これは暗殺・破壊工作部隊としての必要とされる資質が双方同じだからだろう。

イギリスとの諜報戦
KGBが最も手ごわく警戒している諜報組織は英国情報部とイスラエルのモサドだと判断している。エージェントの質が最終的にはどんなハイテクよりも勝るからだ。スパイ行為は所詮、人間関係の駆け引きなのである。そのため金に物を言わしているアメリカなどは容易いと考えている。実際、KGBと英国情報部は水面下で熾烈な戦争を繰り広げていた。

キム・フィールビー事件 1963 ヨーロッパ各地 キム・フィールビーはケンブリッジ大学在学中に左翼運動に傾倒し、KGBと接触することになる。英国情報部のソ連担当部署に潜り込み多くの情報を流した。1961年に告発され、逮捕寸前にモスクワに逃亡する。その時フィールビーのもたらしたエージェント・リストにより1963年にKGBはイギリス人スパイを十数名、暗殺した。それに対する報復処置として、それ以上の数のKGBエージェントの暗殺を開始したため、KGBは急遽ヒットチームの活動を中止させた。
プロフューモ・スキャンダル 1963 ロンドン イギリスの議会のみならず、政府の根底を揺るがしたソルト(セックス)・スキャンダル。KGBのエージェントであるコール・ガールが国防大臣ジョン・プロフューモに接触、ベッドの上から大量の国防に関する機密がKGBに漏れていった。
オレグ・リアリン亡命事件 1971 ロンドン スメルッシュ(KGB第X課)の中佐がイギリスに亡命。これにより、イギリス政府はソ連大使館の105名のエージェントを国外追放にした。これによりアンドロポフKGB長官は、世界に散ったスメルシュ工作員に緊急帰国命令を発し、破壊活動に関して大きな後退を余儀なくされた。

  


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