カジノの仕事
詳細は不明。ルーマニア人の組織が、モンテ・カルロのカジノを使って資金を調達している。カジノの場で彼らを打ち破ることで、それを阻止するためにフランス参謀本部二課のルネ・マチスと共同作戦をとった。このときステフィ・エスポジトからボンドはカードの特殊技術を学んだ。切り札は、マチスが透明インクで密書を書き、特殊メガネでボンドがそれを読むという、
蛍光読みという情報伝達手段だと思われる。

日本人暗殺
ロックフェラー・センターで暗号解読している日本人の暗号専門家を狙撃。パートナーの一人が(希望的推測としてアレックだと思いたい)ボンドが撃つ一秒前に、狙撃し高層ビルの窓ガラスを破壊、殺害はボンドの銃弾によるというもの。

ノルウェー人暗殺
ドイツに寝返った二重スパイの暗殺。英国情報部の二人が返り討ちにあって死亡。ボンドは寝室に忍び込み刺殺に成功。実際に手を汚して人を殺すのは、後味が悪いということ。

ハンガリー人救出作戦
オーストリア・ハンガリー国境において、ハンガリー人の亡命を成功させるべく、作戦指揮官としてボンドが派遣された。しかしロンドンから指揮官を派遣することに反発したオーストリア支局はボンドに対し非協力的な妨害工作を行ったため、ハンガリー人は国境の地雷原において爆死してしまう。

メキシコの麻薬組織壊滅
殺し屋のメキシコ人はカプンゴ。はした金でも人を殺せる奴といわれている。ロンドン内のヘロイン・ルートを探索していった結果、情報部の領域となったので、警視庁特捜部の依頼で動くこととなった。ヘロイン倉庫を爆破するも、ボンドは黒幕よりカプンゴという暗殺者を差し向けられる。ボンドは素手で殺した。

キューバ武器密輸ルート調査
キューバのカストロ派に国境のいたるところから武器が流れ込んでいた。カストロ支持派の者達がジャマイカに武器輸出基地を作ろうとしたためボンドはそれを阻止に派遣された。ボンド自身はカストロには同情的だったが、真夜中に武器を積んだ二隻のヨットに焼夷弾を投げ込んで怪我人を出すことなく手際よく片付けた。

プレンダーガスト事件
 同性愛傾向のあった支局主任が絡んだ事件。彼は反逆罪で30年の刑に。政府はファラー特別委員会を設け全情報機関について調査を行い、情報部は一ヶ月間機能を停止した。Mはこの事件のあと辞職をけついしていた。

外交官に関する作戦
ある外交官を深層催眠にかけ、情報を探り出せないかというもの。その外交官はビルの10階から落ちて死亡。

ボンドの死亡記事

   <ロンドン・タイムズ>
   聖マイケル聖ジョージ勲爵士、予備役海軍中佐ジェイムズ・ボンド
                                                        
M(マイルズ・メッサヴィ)記
すでにこれまでの新聞で知られたとおり、国防省上級職員で聖マイケル聖ジョージ勲爵士、予備役海軍中佐ジェイムズ・ボンドは、日本における公務中に失踪、不慮の死をとげたものと信じられている。筆者にとっても悲しいことだが、彼の生存の希望はあきらめなければならないといまここで報告しなければならない。したがって、彼がよく精励した部の長官として筆者に公務員としての彼ならびに彼が祖国に尽くした目ざましい奉仕について何か語るという責任があたえられたのである。

ジェイムズ・ボンドは、スコットランド人の父、グレンコーのアンドリュー・ボンドと、スイス人の母、カントン・ド・ヴォー出身のモニク・デラクロアの間に生まれた。父親はヴィッカーズ兵器会社の海外派遣員で、彼がフランス語とドイツ語にかけては一流であったことは、初等教育をすっかり海外で受けたおかげである。彼が11歳のとき、両親がシャモニの上のルージュ峠で登山事故で死亡、以来幼いジェイムズは、叔母のミス・チャーミアン・ボンドの保護下に、ケントのカンタバリーに近いペット・ボットムという風変わりな名前の小村で育った。

美しいダック・インのすぐそばのその山荘で、学問もありよくできた婦人らしいその叔母から、パブリックスクールに入学するための教育を受け、12歳かそこらでイートンに満足すべき成績で入学した。イートンには、彼の出生と同時に父が入学志望の手続きをとっておいたのだった。イートンでの生活は短くて、格別目立つようなこともなかったと言わなければならない。結局、わずか二学期で、ここに誌すのは辛いのだが、友人のメイドとまちがいをおかしたとかで、叔母のところへ退学勧告が行った。叔母の努力で、彼は父の母校のフェッテスに転学することができた。
この学校はいささかカルヴィン主義的な空気のある、学問的にも体育の面でも非常に厳しいところだ。しかし、生まれつき孤独になりがちな彼が、この学校では伝統的に有名な体育サークルで堅い友情などを育てている。17歳になってすぐ卒業したころまでに、彼はライト級の学校代表として2度も拳闘試合に出ているし、さらにイギリスのパブリック・スクールとしては最初の本格的な柔道部を創設している。

1941年になると、19歳になった彼は、父のヴィッカーズ社時代の同僚の援助もあって、後に国防省に昇格した政府機関のある出先機関にはいった。秘密の任務をはたすという仕事から、彼は英国海軍特務中尉に任ぜられたが、戦争終結時に中佐に昇進していたことは、彼の勤務がいかに上司を満足させていたかを計る尺度になるであろう。筆者が国防省の仕事のある面で彼と関係をもつことになったのはそのころで、戦後ボンド中佐からそのままこの省の仕事をつづけたいという請願書を受けたときは、筆者も大変うれしかった。彼は、この悲しむべき失踪の時には、国防省の一級公務員に昇進している。

国防省におけるボンド中佐の任務は、たまたま1954年に聖マイケル聖ジョージ勲爵士に列せられたことは明らかにされているが、現在も公表はできずに秘密にしておかなければならない。しかし、同省の同僚として、彼が目ざましい勇気と才能によって任務を遂行したことは発表してもよいであろう。もちろんときには、その気性の激しさから、上司と摩擦を起こすような無謀なところもなきにしもあらずであったが、彼は高度の危急に際しては“ネルソン魂”とでもいうべき根性を示したし、任務のおもむくところ数しれぬ冒険を何とかしてどうやら無事に切り抜けてきたのだった。そういう冒険のいくつかがとくに海外の新聞などにより世間の噂になることはやむをえないことで、彼をその意志に反して世間の人気者に仕立ててしまい、当然その結果として、ジェイムズ・ボンドの個人的な友人にしてもと同僚のある人物が彼を一連の通俗小説に書いている。もしこの本の性質や真相を伝える程度がもう少し高ければ、著者はまちがいなく国家公務員秘密保護法に問われることであろう。かかる小説が国防省でとりあげられ、しかも立派な国家公務員の経歴をかかる高唐無稽なロマン化された戯画にした著者や出版社に対して何らの手を打たないことは、とくにここでその本質を強調しておくが、国防省がそういうものを軽蔑している現れである。

この短い追悼文の結びとして、ボンド中佐の最後の任務は国家のために最大の重要さをもったことのひとつであると、同僚に認められていることをつけ加えるだけである。悲しいことに、彼はその任務から帰ってこないことがいま明らかになったが、筆者は国家上層部の許可のもとに、彼の任務は百パーセント達成されたことが証明されたと断言できる。このただひとりで果たした豪胆な努力の成果により、わが国土の安全が大いに保障されたとはっきり断言しても誇張ではない。

ジェイムズ・ボンドは、1962年にマルセイユのマルク−アンジュ・ドラコのひとり娘テレサと短い結婚をしている。この結婚が悲劇的状況におわったことは、当時の新聞に報道された。それ以外には筆者の知るかぎり、結婚したという証明は出されていないし、またジェイムズ・ボンドには生存している身よりはひとりもいない。



M・G(秘書のメアリー・グッドナイト)記 
わたくしはこの3年間、国防省で、ボンド中佐の身近につかえてきたことを、しあわせであり誇りとも思っております。もしわたくしたちの恐れが本当に当っているとしたら彼の墓碑銘に捧げたらどうかと思う短い言葉があります。ここの下僚たちは、この言葉が彼の人生観をひと言で示していると思っています。
「生命を伸ばすために無駄なときは使わない。自分のときは思う存分使うんだ」



kl